江戸・東京にあった遊郭1 新吉原遊郭
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いやはや何とも、凄い!下に纏わることがこれほど根強いものかと改めて知らされる。
知っていましたか、【吉原】が江戸・明治、大正・昭和に亘って江戸幕府の鎖国よりも長い340年間も続いたことを! それはネット上のウィキペディアの解説を読み終えた後の感想であるが、それにしても、そこで繰り広げられていたであろうどろどろした人間模様を描写した話や悲哀に満ちた逸話は星の数ほどあったに違いないと想像する。史実をひと通り知るには同解説に目をとおすのが手っ取り早い。
吉原遊郭は幕府が家康亡き後、1617年家康の隠居地駿府から日本橋葦屋町(現在の日本橋人形町)に城下にあった公娼七か丁の内、五か丁を移したものとあり、【吉原】の名の由来は海岸に近い葦の茂る僻地、葦原を悪しに通じるのを忌んで吉原としたとある。そう言えば、千疋屋の店が親父橋のたもとにあって遊女に土産を買っていく客で賑わっていたと言う話を聞いたことがある。1656年(明暦2年)幕府は江戸市中拡大のなか、大名の武家屋敷が吉原に隣接することを憂慮して、吉原側に浅草寺裏の日本堤への移転を命じた。これが新吉原の誕生劇であるが、その歴史を語るには度重なる火事の話をおいては出来ない。ついでながら横浜の遊郭もしかり、幕末の港崎(みよさき)遊郭をはじめ、横浜にあった遊郭の話をすることは火事による被災と移転の歴史を語ることに等しい。
写真1は明治初期の新吉原、仲之町のものである。写真2は新吉原の張り見世、写真3、4が花魁、遊女のものである。写真5が何代目の門か分からないが、明治14年1月に完成した新吉原大門である。写真6は新吉原内にあった大阪屋の佇まいを撮ったものである。遊女がベランダに勢揃いしている。いずれも明治中期のものと思われる。写真7,8は出入りの商人がまだ明けぬ張り見世の前でたむろしている場面を切り取った写真である。ストリートフォトグラフィーならぬ、ポーズをとらせての撮影であるが、そこから見えてくるものもある(明治後期~大正期)。
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江戸・東京にあった遊郭2 根津遊郭/洲崎遊郭
八幡楼とその遊女たち
江戸のはじめ、根津は近辺の中仙道筋の湯島・本郷がいち早く町場化したとあるが、地域一帯は大部分が農村であった。湯島は麹の産地として著名、味噌問屋が多く、本郷は肴屋と竹・丸太屋が多くあったとある。明暦の大火は1657年(明暦3)にこの地の寺から出火して江戸の町を焼き尽くした。折りしも、江戸の都市構造の変化が求められていた時代であった。大火後、幕府は防火対策として江戸城近辺にあった大名屋敷・旗本屋敷や寺社を周辺地域の標高20~30mの平坦な台地上に移転させた。根津はその一環として、1706年(宝永3)根津権現社が千駄木から移ってきて町立てされた地区であったが、以来根津権現社の門前町として賑わい、煮売り料理茶屋が置かれて、1708年(宝永5)には既に伊勢屋・大黒屋など多数の遊女屋があったとある。
根津権現浮世絵
根津遊郭(遊女屋)が吉原と比べて影が薄いのはその規模もさることながら、江戸・明治と取り払い令の施行と許可を繰り返していたことに起因する。1877年(明治10)東京大学が本郷富士見町の旧前田藩屋敷跡地に開設した。同大学の学生が遊女屋に流れるのは自然の成り行きであったが、根津の遊女と学生との色恋が文豪の小説に登場し、物書きの餌食となって世を騒がせることとなった。かくして、明治21年根津遊郭は教育の場に悪影響を及ぼすと言う理由で深川洲崎に移転させられた。
東京大学の学生と根津遊郭の遊女との関わりで特筆されるのは、シェクスピアの翻訳で有名な文学者坪内逍遥が東京大学の学生時代に数年間八幡楼に通いつめて遊女“花紫”との恋を実らせる話であるが、二人は明治19年に正式に結婚している。上の写真がちょうどその頃に八幡楼の庭先で撮られたものであるが、その中に“花紫”がいないかと追ってしまうのは凡人たる所以であろう。
写真1は根津権現社(明治初期~中期)である。写真2、3、4、5、6が移転先の洲崎遊郭の画像である。同遊郭もまた明治後期に大火に見舞われてしまうが、写真5と6に焼失した洲崎遊郭の姿が映し出されている。その中に新八幡楼の建物と焼け跡の中に立つ大門の柱が見てとれる。
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横浜岩亀楼/港崎(みよさき)遊郭
テリーベネット氏の著書Collectors’ Data Guideによると、ネグレティザンブラ社が1861年に発売したステレオ写真の中に横浜岩亀楼 No1 、No2と記載されたものがある。各々に付された番号は1729 と 1730であり、今回取り上げた写真と番号違いであるが、同シリーズのものであると思っている。1729番以前のもの、1756番以降の調査が望まれる。
横浜岩亀楼は横浜居留地につくられた遊郭であるが、時を待たずして焼失してしまう幻の遊郭、港崎遊郭の中にあった。岩亀楼は当時としては走りの同内唯一の本格的遊郭であった。残された資料も少なく、写真の存在はあまり知られていない。貴重な写真だと言ってよい。
文章=T
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