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今月の一枚

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大正冨士屋ホテル送迎バス



一枚目は大正9年(1920年)秋の写真である。見るからに傾斜のありそうな山の上で、さぞかし揺れるのだろうと想像してしまう。奥の車の行き先は読み取れないが、手前の一台には国府津行の文字があり、ホテルから駅までの送迎バスではないかと思われる。タイを締めて立っているの身なりの整った人物は支配人だろうか。車のドアに手を掛けている青年もなかなかポーズが決まっている。
二枚目は同時代の軽便鉄道だ。軽便は一般の鉄道よりも簡易・安価に建設され、レール幅が狭い。国府津-小田原間の鉄道に接続する形で熱海鉄道があった(前身は豆相人車鉄道)。いずれも短い期間の運行で今となっては珍しい。是非当サイトの資料をご覧頂きたく思う。


幕末医師の写真に見る刀と身分


今月の一枚は幕末~明治の医師、松本良順の写真である。長崎で西洋医学を学んだ良順は、幕府の奥医師となり医学所(東京大学医学部の前進)頭取、将軍侍医などを務めた人物である。近藤勇とも親交があり、新撰組隊士の診療も行った。

写真の良順は剃髪し、背後には刀が掛かっている。江戸時代、武士や一部の許しを得た者以外の帯刀は禁じられていたが、医師は度々刀を差したところが絵に描かれている。写真を撮るにあたってしっかりと刀を写しているところなど、矜持が表れているように感じる。江戸時代の、特に将軍や大名に仕える医師は剃髪し僧形をとっていた。これは身分の低い者に身分の高い者を診させるわけにはいかず、僧侶と同じく身分の外の存在としたのだろう。

このほかに力士もまた浮世絵などで二本差しして描かれているのを見受けられる。江戸時代、各藩はこぞって有力力士を召抱えた。召抱えられた力士は武士身分を得たので帯刀することができた。また帯刀を禁じられた者でも、脇差は持つことが出来た。道中差などである。侠客などは打刀ほどある刀を長脇差と称して用いることもあったという。(S)


大丸屋



今月の一枚は、老舗百貨店大丸の呉服店時代の写真である。右上三桁の電話番号から、恐らく明治~大正期の近畿地方の店舗ではないかと思われる。
大丸は享保2年、京都伏見に開業した大文字屋にはじまり、名古屋、日本橋大伝馬町などに開店していった。江戸末期の浮世絵には飲食店や呉服屋が盛んに描かれ広告としての機能も兼ねていた。下の2枚は歌川広重作で、いずれも江戸大丸屋を描いている。江戸進出の際それに先駆け、使用人が荷運びに持ち歩くのを見越して江戸の取引先に大丸印の派手で使い勝手の良い風呂敷を大量に贈ったという。その風呂敷が江戸庶民の間で話題になる。それでいざ江戸に店を開く時にはついにあの大丸が江戸に来たぞ、といった具合にことが運んだというので宣伝効果は抜群だったようだ。日本の広告宣伝がどう発達してきたのか興味深い。江戸店は現大伝馬町タキトミビルディング辺りに位置していた。(S)


三井銀行(後の第一国立銀行)



明治初期、内田九一撮影。

江戸時代、呉服店に併設された両替店から幕府の大阪御金蔵銀御為替御用を経て維新政府の御為替方となった三井組は、明治5年(1872)6月、日本初の銀行建築を兜町の海運橋際に三井組ハウスを建造する。総工費47,601両、五階建てで展望台の付いた建築はまるで城のようである。設計は清水建設二代目清水喜助。先進的な和洋折衷設計の粋を極めたこの建築は、新聞も大々的に取り上げ、一般市民の関心も高く東京名所として人気を博した。現代でも多くの絵葉書や錦絵の残る名建築である。(A)


新富座、演目『黒白論織分博多』



今月の一枚は、明治9年に火災で焼失し明治11年新設された京橋は新富座の写真である。洋風のガス灯を配備するなど西洋劇場の文化を取り入れる試みがなされているのが特徴で、横一列にずらりと並ぶ絵看板が壮観だ。
写真1の絵看板を拡大した画像が3枚目以降である。演目は恐らく明治15年11月新富座初演、伊達騒動に加賀騒動または仙石騒動と並ぶ三大お家騒動の一、福岡藩黒田家お家物、『黒白論織分博多(コクビャクロンオリワケハカタ)』ではないかと思われる。
ドラマ「軍師官兵衛」でも記憶に新しい黒田孝高の息子・黒田長政は関が原の戦功により52万石を与えられ初代福岡藩主となる。長政の長男・忠之は質素倹約を心がけた祖父・父と違い、生まれながらの大藩御曹司であったためか派手好みで性格も我侭であったといい、これを憂いた長政は家督を三男に譲ると宣言するが、栗山大膳の嘆願により大膳を後見とし忠之に家督を譲ることを決めこの世を去った。藩主となった忠之であったが大膳含め長政時代からの重臣たちと対立、改易などの強攻策を取るうち大膳により「忠之に謀反の疑いあり」と幕府に上訴されてしまう。これに対し忠之は「大膳は狂人である」と主張、ついには10年に及ぶ黒田騒動に3代将軍徳川家光直々の裁きが下ることとなった。江戸時代中期には黒田騒動を題材にした歌舞伎が多く上演されており、黙阿弥による改作が『黒白論織分博多』である。九代目市川團十郞が栗山大膳を演じた。(S)




昔の海苔づくり



今月の一枚は海苔干しの様子を捉えた写真である。
海苔は古くは奈良時代の書物にも登場しており、その頃は佃煮などにされ食べられていた。現在のような四角く乾燥させた板海苔が登場するのは江戸時代になってからである。長らく海苔は高級品であったが、江戸時代に東京・大森で養殖に成功し大量生産が可能になるにつれ、庶民の間に普及していった。 写真は品川・大森付近と思われる。細かく刻んだ生海苔を海苔簾に広げ、四角い木枠の中に流し込み天日干しする。規則的に並べられた四角の連続は一見アートのようである。海苔干しに忙しい生産者はそれどころではないだろうが、偶然通りすがった者にとってはちょっとした非日常の楽しみを味わえる光景かもしれない。(S)


Japanese watering car



今月の一枚は暑い夏ににぴったりの、水撒き車の写真である。 一枚目も二枚目も、車夫に引かれた車から勢いよく飛び出す水飛沫がなんとも気持ちよさそうだ。一枚目の写真では車夫の背中(肩?)から伸びた紐が車に繋がっており、これで水量の調節を行っていたのだろうか。二枚目は車体に芝の文字が見え、よく確認できないが制服を着ているようにも思える。公務員かもしれない。現代の東京ではこのように勢いよく水撒き車が走るのは困難だろう。当時の広々とした景色が想像できる。(S)




だるま型自転車



今月の一枚はだるま型自転車である。前輪と後輪を横倒しのだるまに見立てた名前で、英名のペニー・ファージングもイギリスの大小の硬貨に準えている。明治に日本に輸入され、日本の職人が見よう見真似で造った国産品もある。しかしペニー・ファージングには手作業では製造困難な部品が使われており、熟練の職人の手を以ってしても技術的なところまでは再現できなかった。通信省で採用され、だるま型に乗った郵便配達員の写真やイラストが残されている。
現代の自転車に乗りなれた身からすると、どうやって乗り降りしたのか想像が付かない。(S)


曳き舟



今月の一枚は狭い川に浮かぶ曳き舟と、その上を通る子供の写真である。橋代わりか板と丸太が架かっているが細く危なっかしい。子供の足取りも慎重に見える。恐らく、京都の高瀬川ではないかと思われる。もしくは白河か。当時の生活を感じられる一枚である。(S)


釣台

今月は釣台を取り上げる。釣台はカゴのような形状した物を運搬する道具、カゴが人を乗せて運ぶのに対して、釣台は物を運ぶものと思いきや、辞書によれば、負傷者、 病人、罪人を乗せるものとある。今月の一枚は正しく明治中期のその写真、手前右と奥に釣台が見えるが、その時期の災害と言えば、濃尾地震、明治三陸地震が思いあたる。釣台自体昭和初期に消えて、その言葉ももはや死語になっている。また、釣台は江戸時代から昭和初期にかけて、婚礼時に花嫁の調度品を運ぶ行列に見ることができる。どうやら、町や村の大家の家には釣台が常備されていたようだ。おそらく一般的には救急搬送を雨戸、大八車、人力車に頼る時代が長く続いたのであろうが、話が救急搬送の近代化、病院の発展、葬儀史まで膨らむともう収拾がつかない。(TK)




横浜停車場内観・外観

日本初の鉄道は明治5年新橋-横浜間で開通した。両駅はリチャード・ブリジェンスによる同一設計で、ぱっと見では見分けにくい。
駅舎外観の写真は数多く撮られたが、内側を撮影したものは珍しい。(K)


日本のフランダースの犬?

今日ではペットとして一般的になった犬だったが、かつては貴重な労働力としても使役されていた。番犬、軍用犬など様々の中から、今月取り扱うのは運搬犬の写真である。
一枚目の写真は自然な撮影で臨場感がある。フランダースの犬に出てくるパトラッシュはミルクを運搬していたが、二枚目、三枚目の写真ではそれぞれ土管、材木を引いている。4枚目は外国版で、日本の写真で犬たちが繋がれていたのが紐だったのとは違い、鉄製のものを使っている。載せているのはミルクだろうか。現代の私たちの目からすると犬にはいかにも重すぎるように映る。(S)



上野で停車中の鉄道馬車

先月に引き続き、馬車鉄道、上野の写真をご紹介。 汐留、新橋、執着地以外の停留所は無く、乗客は今のタクシーのように道で手を挙げて乗車したり、降りたい場所で停めて貰っていたらしい。車両後部から男が頭を出しているのは乗降しているのだろうか。ダイヤも運行表も無かったと聞くが、乗車希望者は馬車の姿が見えるまで待ちぼうけだったのだろうか。窓辺に乗客の姿が見え、なかなか賑わっているようである。
また、こちらが珍しい。馬に注目して頂きたい。桶を持った男が餌か水かを与えている。上野は給餌場所だったのだろうか。生き物なのだから当然だが、馬車鉄道と給餌や糞尿などの問題は切り離せない。社会問題になったこともあり、東京の交通は馬車鉄道運行開始から20年程で路面電車に切り替わった。貴重な時代を切り取った味わい深い写真だと思う。(S)


浅草行き鉄道馬車

すぐ横を人力車や荷車が通る大層狭い道に馬車鉄道が通っている。馬は車体に隠れて見えないが、馬車の文字の通り新橋から浅草に行く馬車である。
東京馬車鉄道が開通したのが明治15年である。2枚目の画像は木版の明治19年浅草周りの地図で、なんと路線が載っている。陸地を走る蛍光ピンクの部分が馬車鉄道で、川のラインは恐らく航路だろう。進行方向はわからないが、この路線では浅草寺、上野公園を経由している。写真は地図の細い路線のうちのどこかだろう。
写真と合わせて古地図を広げ、昔の浅草を散策してみるのも楽しいのではないだろうか。(S)


授業風景



いつの時代かははっきりしないが、坊主頭で和装の男子学生たちが皆背筋を伸ばして教科書に目をやっている。いつもこの良い姿勢なのか、撮影仕様なのか、興味深い。
先生二人は洋装だ。校舎も天井の高い洋風建築で、なかなかお金持ちの学校かもしれない。手前の机からは明治…新調…赤坂…などの文字が読み取れる。(S)




長距離列車で熟睡する乗客



当時の長距離列車は昼夜を駆けないと目的地に辿りつけず、必然として夜行列車でもあった。
手前の客は自分で持ち込んだのか、寝台車でもないのに枕を使っているし、皆思い思いの格好で眠っている。客席にはゆとりがあり、それなりに優等席ではないだろうか。乗客の装いから明治中期頃の風景ではないかと思われる。
当時の列車の写真は外観や乗客なしの内観が多く、実際の乗車風景を写したものは珍しいように思う。各々の気持ちよさそうな寝顔までつぶさに見て取れる。大口を開けている男性陣の奥に居る女性客が顔を伏せているのがまた味わい深い。長旅の疲労までがこちらに降りかかって来るようなリアリティを感じる一枚。(S)




大日本帝国海軍占領時代のサイパンの絵葉書



今月の一枚は大日本帝国海軍占領時代のサイパンの絵葉書である。
看板に大日本帝国マリアナ群島占領地軍政庁の手書き文字が読み取れる。第一次世界大戦での占領後それほど経っていない、大正初期当初の様子が切り取られたものと思われる。武装した兵士と備えられた機関銃が見える。(K)




日本によって加刷されたドイツ発行マーシャル諸島の切手



ドイツ植民地では植民地専用の切手が発行されていた。今月の一枚はドイツが占有していた南洋マリアナ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島のうちマーシャル諸島のカイザーヨット統一図案切手9枚である。各々に田村、小林、加納の印鑑が押印されている。戦時下では占有した地域で使われていた切手に自軍の印を重ねて刷りそのまま使用することがあり、これも1914年日本占領時に加刷されたと思われる貴重な物である。鮮明な印章が写真2。写真3は第一次世界大戦時の加藤友三郎司令官率いる日本海軍マーシャル諸島占領の記事である。
1997年、米国の郵趣展示会においてH.Kaiser氏により"Marshall Islands Japanese Occupation 1914 ( New Light on the "Chops" from Old Documents) が発表され、同様の切手と共に出品されて同氏が金賞の栄誉を賜ったと伝えられる(写真4~7がそのコピー)。更なる発見や研究が待たれる。(TK)




ドイツ領時代のサイパンの絵葉書



第一次世界大戦参戦後、第一艦隊司令長官加藤友三郎中将は1914年9月3日「隷下ノ一部ヲ以テ南方方面ニ策動スベシ」の命を受けて、第三戦隊司令官山屋他人中将に南遣支隊の編成を指示し、マリアン群島、東西カロリン群島方面への進出を命令した。

第二南遣支隊所属の鹿児島丸はパラオ地区担当の第六特別陸戦隊を乗せて1914年10月末に佐世保を出航、11月6日朝コロールに主隊を揚陸させて11月17日分隊をアンガウルに上陸させ、11月19日には更に分隊をヤップに揚陸させて11月21日長崎に向け帰国の途に就いたが、この航海には何故か艦船郵便所が設置されなかった。この航海前の10月1日、鹿児島丸には第一艦船郵便所が設置されたが、それは山東半島向けの航海であったと思われる。1914年12月10日、第二艦船郵便所が佐世保を出航する鹿児島丸に設置される。鹿児島丸の2回目の南洋群島への航海であった。

今月の一枚はドイツ帝国領有時代に使われていた独製のサイパンの絵葉書である。それはおそらく日本軍により接収か略奪されたものであろう。日付印のA欄は〈第二艦船〉4.4.16(大正4年4月16日)、C欄が〈郵便所〉となっている消印である。第二艦船とは鹿児島丸のことである。鹿児島丸は1914年12月10日(大正3年)出航後12月17日にパラオに入港、1915年(大正4年)の元旦をトラック島で迎えた。1997年の米国の郵趣展示会においてH.Kaiser氏により発表されたレポートが思い出されるが、日本軍占領時拘束されたドイツ人郵便吏、J.Krumlingが述べた「1915年(大正4年)6月9日鹿児島丸で横浜に向った」は、彼がこの船にどこからか乗船したことになり、何気に記録と符合してくる。鹿児島丸が1915年5月6日にまだサイパン島に停泊していた記録が残っている。(TK)

東京、横浜の蛇口



先月に引き続いて水道に関してである。
日本で最初に近代的な水道が導入されたのは横浜である。道に設置された共用栓の写真(下)をよく見ると、蛇口が獅子の口になっている。これはこの時期の水栓が全て英国からの輸入だった為である。欧州の噴水や浴場の、水を吐き出す獅子の彫刻は日本でも知名度が高いと思われる。あのレリーフの始まりは古代エジプトと言われており、大地に恵みを齎すナイル川が氾濫する8月、太陽が獅子宮に入ったことに由来している。

横浜に次いで水道の近代化が成された東京で、水栓を輸入から自国での製造に切り替えるにあたり、レリーフも西洋の水の神から東洋の水神である龍に変更されたのが左の写真である。場所が未だ特定出来ていないのが残念だ。龍と聞いてピンときた方も多いかもしれないが、蛇口の由来がこの龍口である。なぜか龍の名前は採用されずに龍に似た蛇の名前で呼ばれるようになったという。

共用栓は関東大震災で失われ、当時の姿を収めた貴重な写真といえる。(S)


東京の上水道

当時世界でも最大規模の人口を擁する都市であった江戸では、当然水の確保は重要な課題であり、1600年前後から上水道の建設が始まっていた。結果江戸には6つの上水道が存在し、中でも江戸の二大水道といえば神田上水・玉川上水を指す。

神田上水は井之頭池を水源とし、関口大洗堰を取水口とした。余水を当時の江戸川(現神田川)に流しており、上は江戸川橋の写真である。下の写真は御茶ノ水橋で、真中に見えるのは上水の管理棟。橋の上に上水が走っている。御茶ノ水橋と同じく神田川に架かる水道橋は、神田上水の懸樋(かけひ。水を引くために地上架けた竹や木のとい)が上流にあったことからその名がついたと言われている。

下の浮世絵(パブリックドメイン美術館より)は「関口上水端芭蕉庵椿山」である。歌川広重作であり19世紀前半に描かれた。芭蕉庵は神田上水改修工事の際、1677年から1680年まで松尾芭蕉が住んだと言われている。江戸の上水道は水の落差を利用して給水する「自然流下方式」を採用しており、主な設備は木や土、石で作られた。

19世紀、パリ・イギリス等のヨーロッパでは近代化が進み、蒸気機関による揚水や浄水装置、鉄パイプ製水道管などか開発され、日本にも1890年頃になって横浜の外国人居留地を筆頭に水道の近代化が進められた。一方旧来の水道設備が発達していた東京では明治維新後水質の悪化が問題になっており、1898年(明治31年)淀橋浄水場の完成をもって、やっと水道設備の近代化が成された。(S)


常盤橋御門前



常盤橋御門前の写真である。

常盤橋の親柱には当然のごとく擬宝珠(ぎぼうし)が覗える。同御門は1872年(明治5年)に撤去されたとあるので、写真はそれ以前に撮影されたことになる。そこには高札場が右手にあるが、人力車の溜まり場になっていたように見受けられる。左手奥に呉服橋が見える。 (T)

鉄道郵便車



今月の一枚は明治中後期の鉄道郵便車の逆版刷りされた絵葉書である。停車中の駅はおそらく新橋―横浜間のものと思われるが、当時の職員の服装や客車の様子が垣間見えて中々興味深い。同時代の郵便の配達模様を写した普及版の絵葉書を下段に載せたので見比べて欲しい。共通点が見つかる。同時代の参考品として併せて朝鮮国の郵便局と配達員の絵葉書と日露戦争時に号外を配った男の絵葉書を載せた。いでたちが印象的である。

わが国の近代郵便の発足は明治4年3月1日とある。郵便制度の父と呼ばれ、切手にもなった前島密がいた。国民的英雄として地元では銅像が建てられたほどの人気ぶりであるが、はたしてそのように英雄視するだけで良いものか、その評価に疑問が残る。1876年、時の大蔵卿であった大久保利通と前島密は、列強に続けとばかりに大陸進出を画策して上海に日本郵便局をつくった。その後、日本は進出の足がかりとして郵便局開設を各地で精力的に行ってきたが、その後の日本の行く末に大いに関わった。郵政から臨んだ歴史の一遍である。(T)


上野駅周辺



上野駅の写真は多々あるが、今月は中でも珍しい駅周辺の画像を集めた。東京馬車鉄道が上野に開通したのは明治15年~明治16年のことで、鉄道の損壊や糞尿の問題などで路面電車に移行するまで20年間営業が続いた。乗り降りの場所は自由で、乗りたいときは手を上げれば良かった。現代のバスとタクシーのような感覚だろうか。

山下にあった「雁鍋」は幕末より名のしれた料理屋で、夏目漱石、森鴎外、正岡子規らも通っていたといい、作品内にもしばしば名前が登場し、大正はじめに発行された「下谷繁盛記」も雁鍋について触れている。上野・文京周辺には明治の文豪が多く集まっていた。


富岡製糸場

富岡製糸場



富岡製糸場は、1872年(明治5年)に殖産興業の近代化のために明治政府が設立した、日本初の本格的な器械製糸工場である。開業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存しており、世界文化遺産に登録される見込みである。今月は繰糸所の開業当時の様子が伝わる2点の画像をご紹介する。

当時世界的に見ても最大級の建造物で、煉瓦と日本瓦という西洋と日本の技術を融合したデザインが見事であった。壁面は、木の骨組みに煉瓦を積み入れて造る木骨煉瓦造という工法だそうだ。当画廊のものは複製ではなく当時撮影された貴重な生写真である。

イラストをご覧頂きたい。三枚組みの絵葉書に壁面の煉瓦と天井の梁の対比が美しく描かれている。ずらりと並ぶ女工の中央にいるのは、指導をするお雇い外国人だろうか。初期は”外国人に生き血を吸われる”などと噂され工女が集まらなかったが、旧士族の娘が集められるなどしたお陰で次第に増えていった。上流階級の女工の服装に憧れ、借金までして服を買う女工もいたという。当時の活気を伝える華やかな一場面である。

富岡製糸場

大阪市電

大阪市電



日本初の公営電気鉄道である大阪市電は明治36年(1903年)開通した。上段写真は翌年運行が始まった二階付きの5号車の絵葉書である。2階の人々は揃って端に群がり、物珍しそうに景色を見下ろしている。屋上に手すりと布製の屋根が付いただけの2階は、なるほど夕涼み電車などの異名がつくのも頷ける。下段は昭和28年市電50周年を記念して製作された、720号車を改造した5号車の模造車両と思われる。

新島襄

新島襄



今月の一枚はNHKの大河ドラマ八重の桜に登場した新島襄の写真である。

新島氏についてはドラマのお陰で全国的に知れ渡ることとなったが、同氏は教育者であり、同志社大学の創始者である。写真は外国で撮ったもので、裏面にある記述が興味深い。もしかしたら新島氏の肉筆かもしれない。Your’s truly Joseph Neejima とあるが、Yours trulyにポーストロフィを付して貴殿之信友と訳し、ジョセフと名乗っている。そこからは明治当時の訳語に対する苦労と日本人の律儀さがうかがい知れる。Yours truly は“誠実に貴君のしもべである”と云う意から手紙の結尾用語の敬具として使われている。

結髪

結髪



江戸時代、兵庫髷、島田髷、勝山髷、笄髷の四種類を基本とし、女性の結髪のバリエーションはとても豊富だった。服装でその人の身分や職業が判別できたように、髪の結い方でも既婚である、武家の者であるかを推測できたようだ。

今月の一枚は結髪を後ろから撮影した写真である。通常鬢にあたる左部分に毛先が配置されておりざっくばらんな印象を受ける。

安珍清姫舞台

歌舞伎、安珍清姫の一場



美貌の僧・安珍に懸想し裏切られた清姫が、怒りのあまり火を吹く蛇の姿になって追いかけ、やがて紀州(現和歌山県)道成寺の鐘の中に逃げ込んだところを焼き殺し自らも入水するという伝説は能・浄瑠璃・歌舞伎など様々に演じられてきた。今月の一枚は安珍・清姫の一場と思われる歌舞伎舞台の様子である。

見沼氷川公園

見沼氷川公園



写真はさいたま市に現存する見沼氷川公園場所で明治初期~中期頃に撮られた古写真と思われる。日本で初めての公園と言えば、明治元年神戸居留地につくられた東遊園地、続いて横浜居留地に明治3年につくられた山手公園である。東京に限れば、公園制度が明治6年に制定されたものの、当初は上野公園や芝公園など寺社境内の公園化が中心であり、一から新しく作る公園として、日比谷ヶ原が明治26年に日比谷公園と命名され、紆余曲折を経て明治36年に完成した。この写真の驚くところは、公園という概念が未だ一般化していない時代、写真機が余り普及していない中にあって、公園が居留地周辺以外の場所で映し出されていることである。 ??もしかしたら、撮影者は単にローカルな花見風景を撮りたかっただけかもしれない。

大八車の後ろにある土手にいる人物が氷川公園の名入りの半纏を着ている。これから始まる公園化の模様を呈している。現代の氷川公園が花見の名所としても有名であるが、その始まりを思い起こさせる桜の木が画面の中に登場している。土手にいる人物のヘアースタイルに注目。花見見物を演出してか、手古舞装束に見える。

豆相人車鉄道

豆相人車鉄道



豆相人車鉄道は熱海-小田原間の浴客輸送を目的として熱海の旅館業主や京浜実業家等によって計画され、当初検討されていた馬車鉄道等は資金が集まらなかったため、人力で車両を押す比較的安価な人車鉄道として明治29年本開業した。

車両は上等・中等・下等があり、定員は等級によって変わり4人~8人、1台を3人の車夫が押した。料金は下等40銭~上等は1円程と高価なこともあって営業的には成功したが、険しい地形もあり下りは自動下降をブレーキで調整し速かったものの上りは大変遅く運転能率が悪かったため、明治40年、名を熱海鉄道と改めた軽便鉄道として動力変更が為された。国木田独歩や大正天皇も乗車したと記録されている。

奥州阿武隈橋

阿武隈橋 明治初期~中期



今月の一枚は奥州は阿武隈川(現代の福島~宮城辺り)の写真である。

幕末~明治初期、長崎や横浜などといった写真文化の入口であった外国人居留地から離れるにつれ残されている写真の数は少なくなってくる。そうなると明治中期以降の東北の写真では、断髪令の普及により所謂散切り頭の人物写真が増えてくる。三人の男たちが皆ちょんまげを結っているこの写真、従ってなかなか珍しい一品なのではないだろうか。

軍艦開陽丸

軍艦開陽丸



今月の一枚はオランダで撮影された軍艦開陽丸の写真である。

黒船来航を受けて以後外国の中古軍艦の買い入れを始め海軍力強化に当たった江戸幕府ではあったが、まだまだ外国の強力な軍艦には遠く及ばない軍備であり、諸外国の脅威に対抗しうる最新の性能を有する主力艦が必要であった。南北戦争を理由にアメリカへの発注を断られた幕府は1862年(文久2年)、当時最新鋭の性能を有する軍艦の新造をオランダに発注する。...

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当時の価格にしておよそ40万ドルという巨費が投じられ、軍艦の発注と同時に操船技術等を学ぶ留学生が派遣された。開陽丸(夜明け前の意)と名づけられた3000トン級軍艦は1866年(慶応2年)に完成し、留学生たちと共に日本への処女航海に出で、1867年3月26日、無事横浜に入港、引き渡された。帰国後すぐ軍艦奉行勝海舟や留学生の一人、幕府海軍軍艦頭並に任ぜられた榎本武揚などの元、乗組員養成が行われることになる。1865年第二次長州征討で敗戦を喫していた幕府にとって、諸藩を圧倒的に凌ぐことになる開陽丸の戦力がいかに頼もしかったことかは想像に難くない。しかし開陽丸入港から僅か半年、大政奉還から二ヵ月後、王政復古の王政復古の大号令が布告され、時代は幕府廃絶へと向かうことになる。12月9日のことである。

大政奉還の際には江戸湾に在った開陽丸は同月末、江戸脱出を図る薩摩藩船翔鳳丸を追跡砲撃する。初戦は逃れられる結果になり、これを追ってそのまま大阪を警備。明けて1868年(慶応4年)の1月2日、兵庫港より出港した薩摩藩船平運丸への停船命令が聞き入れられなかったことから砲撃し、それを発端に戊辰戦争開戦へと到る。1月4日、鳥羽・伏見の戦いを見守っていた榎本率いる開陽丸は兵庫港より出港する薩摩藩船3隻を再び発見、これを砲撃するもさほどの損害は与えられなかったが、逃げ延びた薩摩藩船春日丸は座礁・自焼するなど、この阿波沖の海戦は旧幕府軍の勝利であった。その一方鳥羽・伏見の戦いに敗れたことを知った榎本が幕府陸軍と連絡を取る為下船している間に、大阪城を脱した将軍徳川慶喜が入れ違いで開陽丸に乗船、江戸に帰還してしまった。置き去りにされた榎本は大阪城の後始末をして帰還する。結局阿波沖の制海権は新政府軍のものとなった。

4月11日江戸城の無血開城が成されると新政府は幕府海軍艦隊の引渡しを要求した。榎本は開陽など主力艦を引き渡すことを拒否。この時引き渡したのは4隻のみであった。この抵抗が可能だったのは旧幕府の海軍力が未だ脅威であり新政府が慎重にならざるを得なかったからである。そして再び引渡しを要求された榎本は抗戦派の旧幕臣と共に陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率い8月19日江戸を脱出、仙台に寄港し蝦夷地へ向かう。暴風による艦隊の離散、拿捕、土方歳三などの旧幕府脱走兵との合流などを経て旧幕府軍が占領していた函館五稜郭に入港。11月14日江差沖に到着するも敵の松前兵は既に撤退しており、榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残し上陸、江差を無血占領する。

ところでどこの地方にもその土地特有の気候というものがある。江差にはタバ風と呼ばれる厳しい北国の冬の強風があって、榎本は無血占領の安心からかまた別の理由からか、海域の調査を忘れていたと考えられる。15日夜、天候が急変し海洋丸は座礁。江差沖の海底は固い岩盤で錨が引っ掛かりにくかった。救出に向かった神速丸は座礁・沈没し、数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没した。こうして開陽丸は、艦そのものの威容に対してあまりにもあっけない最期を遂げたのだった。主力戦艦であった開陽丸の喪失は旧幕府軍海上戦力優越を喪失させ、その後の箱館戦争に影響を及ぼした。江差には今でも、沈みゆく開陽丸を見守りながら榎本と土方が幹を叩いて嘆いた…という逸話の「嘆きの松」が残っている。

尚、その後幾度となく引き揚げ作業が行われ、現在は大砲や日本刀などの引き上げ品と共に、オランダに保管されていた設計図に従い復元され開陽丸が「開陽丸青少年センター」に展示されている。

浜御殿の鷹匠

浜御殿(浜離宮)



明治初期に撮影されたと思われる浜御殿の写真である。ちょんまげの侍がマントを羽織り帯刀姿で立っている。隣の男は軍服らしき洋装であるが、日本におけるこの時期の洋服が仲間内の興味の対象になっているとは以前に述べた通りである。浜御殿という場所柄、その男は幕臣と思われるが、幕兵調練がフランス陸軍の指導のもとに行われたので、この軍服はおそらくフランス陸軍の流れをくむものではないかと思っている。手前の男をご覧あれ。腕の上には鷹が停まっている。そう、これが本物の鷹匠である。浜御殿は徳川家の鷹狩りをする場所でもあった。

大森付近

大森付近



明治初期という時代は色々なお初があって興味深く、どこを切り取ってみても実に面白いものばかりである。日本における郵便制度の発足が明治4年であるが、それより早く明治2年には電信事業が東京と横浜間で開業した。写真は電信の架設作業中の人たちを撮ったものであるが、資料によれば、明治5年に大森付近の東京―横浜間の鉄道沿いで撮影されたものらしい。多くのお初について、いつかお話しをしてみたいと思う今日この頃である。

赤坂御門

東京 / 赤坂御門 / 内田九一撮影



江戸城外郭門のひとつである赤坂御門を門外から臨む写真である。

明治4年に櫓門が撤去され、高麗門が後に除かれるが、この写真には両門が既になく、城の石垣だけが残る。人だかり辺りが弁慶掘の渡しのある所である。この写真にまだお目見えしない弁慶橋やコンドル設計の北白川邸の洋館(現在赤坂プリンスがある場所)は明治十年代後期まで待たねばならない。人力車裏手、城の石垣下は現在の溜池の場所から続くお堀になっている。明治7~8年頃の写真と思われる。

米国ポーツマス市の花電車



1905年8月8日。日露戦争の講和会議が米国の仲介により開かれることになり、米国のポーツマス市が選ばれた。 両国の全権大使が同市に到着すると、パレードが行われ市民による歓迎が絶頂に達して、祝砲が鳴った。 今回の写真はその時の様子が伺えるポーツマス市の花電車である。講和会議は1ヵ月の交渉を経て、調印がなされたが、国民が求めた賠償金は得られなかった。 戦争による大増税・不況風が社会全体を覆う中、講和条件に対して不満を持つ市民が日比谷公園に集まると、市民は暴動化して焼き討ち事件に発展する。

東京/日本橋

東京 / 日本橋



今月の一枚は日本橋の古写真である。橋の上には鉄道馬車が走り、群集がなにやら見物しているように見える。橋の両端には、後に各地で行われた軍事大演習時に設けられた奉迎門のはしりか、誰を迎えたのか未明であるが、奉迎と書かれた門が建っている。東京に初めて鉄道馬車が登場したのが明治15年、最初新橋日本橋間が開通し、徐々に路線を延ばして同年中には計画された新橋雷門間の全線が完成された。車両は全て英国からの輸入であったが、オールドバリー社製が一等車用に充てられスターバック社製が二等車用になった。二等車には夏用のオープンカーがあったらしいが、未だその写真にお目にかかったことがない。運賃は一等車が3銭で二等車が2銭、前乗り後降りで何処でも手を挙げて乗降が出来たらしい。石光真清の回想録のなかに鉄道馬車が開通した当時の模様を記述した箇所があり、中々面白い。鉄道馬車は明治15年より日露戦争前の明治36年まで 運行したが、写真はどうやら、開通間もない頃のものと思われる。
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牡丹と娘

牡丹と娘 / 小川一真撮影



小川一真は多くの写真帖を刊行し、当時最新の写真術を日本に導入するなど幅広く活躍した写真師である。日本の花や名所、風俗写真を多く撮影した他、美術専門書『国華』『真美大観』等の写真製版を担当した。中でも明治23年、日本初の美人コンテストである「百美人」コンテストの撮影など、美人写真の分野では特に名を馳せている。また、あまり知られてはいないが、日露戦争の従軍写真家として撮影した写真ははなかなか面白い。

洋装の青年

洋装の男性



今月の一枚は洋服を着た青年の写真である。日本の洋服の歴史を紐解くのはなかなか面白いテーマであるが、男の洋装に限って言うと、まず思い出すのはちょうど襲撃事件が多発した1860年代の和洋折衷のいでたちである。それは幕末の混乱期の軍服であって、各藩が師事する国に倣ってつくられたと思われるが、とても興味深く勉強してみたい服装風俗である。若者のファッションはいつの時代も大抵革新的である。横浜の記事を掲載した英字新聞を見たことがあるが、和服の二本差しが羨望のまなざしで若者のいでたちを見ているイラストであった。次に思い出すのはビゴーが明治時代の日本人を捉えて風刺したシルクハット姿であるが、今月の一枚に重なるものである。この写真からは日本人が見よう見まねで西洋化の流れに乗ろうとした時代を垣間見ることが出来る。先人の汗の跡が見えたら、おなぐさみ。足の先から頭の先までとくと、ご覧あれ。

長崎の役人

長崎の役人



写真家ウィルヘルム・バーガーはオーストリア、ハンガリーからのミッションを受けて外交関係の構築を目的にシャム、中国を渡り、長崎に着いたのは1869年の9月であった。仔細は明らかではないが、W.バーガーは長崎で上野彦馬のスタジオを使い、横浜で下岡蓮杖のスタジオを使っている。1871年に日本の景色をまとめたW.バーガーの写真集はF.ベアトのベストコレクションと比較されるほどのものであったと言う。写真は彦馬スタジオで撮られた長崎の役人夫婦のものである。

嶋原の太夫

嶋原の太夫



江戸文化、明治時代のことは知っているようで、たった百数十年前のことだと言うのに、分からないことだらけである。 そして、その感性を揺さぶり、脳を刺激して止まない興味深い時代は、どこから切っても実に面白く、 その時代を垣間見ることの出来る写真への思いは終わりない旅のようである。

今月の一枚は嶋原の太夫の写真である。美しい一品を篤とご覧あれ。と言って今月はさぼりである。 その背景にある物語、歴史等々はウィキペディアと貴方の想像力に委ねたい。来月はもう少し汗を流します。 写真を観るのに能書きはいらない、素直に写真と対峙したいと思っている小生にとっては、少々苦痛ですが。 H.Y.

越後獅子

越後獅子 / 明治初期 / B.vスティルフリード撮影



ものの本によると、越後獅子は児童が演じる獅子舞の大道芸とあり、越後獅子が江戸にやってきたとき、その親方が角兵衛であったことから角兵衛獅子となったとも言うらしい。また、大道芸として明治初期に終焉を迎えたとあるが、明治後期~大正期の古写真のなかで見かけることがあり、戦後の歌謡スターの美空ひばりさんが四条八十の詩(越後獅子の唄)を歌っているので、昭和時代まであったのかと思いきや、どうやら違うらしい。

越後獅子の物語は、人々の心を掻き立てる要素を持っていたためであろう、実話、フィクションを含めて語り継がれ、また作家の想像力を高めると、その題材は江戸時代から今日までいろいろな分野で取り上げられることとなった。今月の一枚は越後獅子のなかでも目を引く一品、廊下の壁に飾ってみたい代物である。

北海道/アイヌの家内部

北海道 / アイヌの家内部



北海道は明治に大きく様変わりした。政府の日本化政策により開拓使を設置、移住民の入植を図り、屯田兵の募集をした。 北海道本来の住民であったアイヌは漁業や狩猟を中心に生活していたが、そうした入植や開拓によって活動の場を奪われていった。 写真はアイヌの住居、チセの内部を撮った珍しい画像である。とくとご覧あれ。チセは土地それぞれの自然環境に応じてつくられていて、木造住宅より防寒に優れていた。

京都/方広寺

京都 / 方広寺



お亡くなりになられた方々の
ご冥福をお祈りし、
被災地の一日も早い復興を
心より願っております。

横浜の新聞売り/イケメンの小政

横浜の新聞売り / イケメンの小政



江戸商売図会にある町飛脚の荷物箱を担いだこの男は、横浜の若い女性の間で人気を博した新聞売り小政。江戸の町飛脚の多くは車夫に転向した。新聞売りの男が一部にそのファッションを取り入れた背景に興味をそそられる。男は刺子の長半纏を羽織っていなせな雰囲気を漂わせ、若者のおしゃれ心を発揮している。よく顔を見てみると、鼻筋の通った男前、今流のイケメンが若い女性にキャッキャと騒がれるのはいつの時代も変らぬことなのか、このいでたちの小政が街中を闊歩している場面を何となく想像してみた。明治初期。

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近衛兵(Mikado’s Army)の将校夫人

近衛将校夫人



キャプションによると、近衛兵(Mikado’s Army)の将校夫人とある。この写真は明治4年に横浜で写真館を開業したB.V.スチィルフリード(Baron Von Stillfried)によって横浜で撮られたものと思われる。士族の娘か、明治の軍人夫人の凛々しさの漂う緊張感のある美しい一品である。

※この写真の貸出しはしておりません。ご興味のある方はメールにてお問い合わせ下さい。

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