1858年(安政五)に結ばれた五カ国修好通商条約に基づき、翌年開港場になった長崎、横浜、箱館に外国人居留地が設置されて(箱館は後に雑居地)以来、日本には横浜、長崎、神戸、大阪、東京の5ヶ所に居留地が生まれ、箱館、新潟の2ヶ所に雑居地が誕生した。1899年(明治三十二)に条約改正によって居留地が廃止されるまで、条約を結んだ国の外国人は、安全が保障され、独自の領事裁判制度のある居留地内や指定された雑居地に居住して、貿易活動や情報収集活動などに従事した。開国後の日本は欧米の文化を積極的に受け入れて、社会の近代化を急いだ。
そんな中において、外国人居留地が先兵として果たした役割は大きく、居留地に暮らしていた異国人は日本人社会に大きな影響を与えた。居留地内やその周辺では、経済活動を始め文化活動が活発に行われ、生活に必要なものが次々と生まれた。鉄道、電信、銀行、新聞、印刷、写真、西洋絵画、医療、女子教育、演劇、競馬、射撃、スポーツ、西洋料理店、クリーニング店、牛肉店、アイスクリーム、ビール、炭酸、歯磨き粉、洋服、自転車、オルガン等等、その例は枚挙にいとまがない。
本画廊に展示している絵葉書もまた例外ではない。1870年代に欧州で始まった絵葉書は、国内では居留地の住民の要望に応えるようにして、当時人気を博していた(横浜)写真の版を転用した窓付き絵葉書や肉筆絵葉書から始まり、印刷技術の発達が下支えとなって外国人の実用やお土産用として出回るようになったと思われる。同時に国内では賀詞を送る風習と近代郵便の普及により年賀郵便市場が急速に伸びていた最中、絵葉書の需要は年賀状をきっかけに様々な形で発展し、その利用幅を広げて死人まで出たと言われる日露戦争後の一大絵葉書ブームにまで繋がっていった。
居留地の設置場所について、思惑のある幕府の横浜と異国人の要求する神奈川とで当初揉めたが、最終的には幕府側の推す横浜に決まった。横浜は幕府の思惑通り、生糸貿易により急速に近代貿易港として発展していった。居留地は当初、現在の山下町一帯が指定されたが、貿易が盛んになると、居留者の数も次第に増え、山手まで拡張された。
異国人の貿易活動は振るわなかったが、女子教育や医療などの面において、日本の近代化に貢献した。
木津川と安治川に挟まれた三角洲にあり、車道と歩道が区分され街路樹のあるこじんまりした居留地であった。開設が遅れた居留地であったが、開設してから数年後に港の不備と取り締まりの強化という理由で、居住者たちは神戸に移っていった。その後、キリスト教宣教師たちが入ってきて、伝道の拠点として、女学校や神学校、病院などを設立した。
異国人の自治により運営された極東のモデル居留地と言われ、近代的で美しく整備された欧米の町ともてはやされた。神戸は横浜と競うかのように貿易港をして栄えた。異国人は六甲山を造成して日本最初のゴルフ場を開設した。
開港前より第二の出島計画があったが、ハリスらの要求により海岸地域から山手地域にかけての範囲に居留地が設けられた。また同時期に長崎海軍伝習所、活版印刷所、製鉄所、造船所が完成して、近代化の第一歩を踏み出した。長崎海軍伝習所からは後の海軍や海運業で活躍する者達を多く輩出した。
外国人の住居は居留地内であり、商行為は開港場内に限定されていたが、その10里四方は行楽に出掛けることの出来る遊歩区域とされていた。その外側を「内地」といって、立ち入るためには個別にパスポートを申請しなければならなかった。ここに取り上げた地域は外国人がよく出没した近県にあった行楽地である。